教えのやさしい解説

大白法 424号
 
三  証(さんしょう)
 三証(さんしょう)とは、日蓮大聖人が宗教の正邪(せいじゃ)を見極(みきわ)めるために立てられた三つの判定(はんてい)基準のことで、文証(もんしょう)(証文)・理証(りしょう)(道理)・現証(げんしょう)の三つをいいます。
 文証とは、文献上(ぶんけんじょう)の証拠をいい、その宗教の教えが仏説(ぶっせつ)と合致(がっち)しているか否(いな)か、釈尊の説いた経典を根拠として正邪を判定することです。釈尊は『涅槃経(ねはんぎょう)』に
「若(も)し、仏の所説に随わざる者有らば、是(こ)れ魔の眷属(けんぞく)なり」
と戒(いまし)め、大聖人は『聖愚問答抄(しょうぐもんどうしょう)』に
 「経文に明らかならんを用(もち)ひよ、文証無からんをば捨てよ」(新編 三八九頁)
とあるように、経文に拠(よ)らない我見・臆見(おっけん)の邪宗教に惑(まど)わされてはならないと仰せです。
 また、大聖人の教えの中では、教義信条(しんじょう)等を説き示した文献として、御書または御歴代(ごれきだい)上人の御指南がありますから、これらをもって重要な文証とし、正邪・用否(ようひ)を判定しなければなりません。
 理証とは、その宗教の教義が理性的批判(ひはん)に耐(た)え、道理に適(かな)っているかどうかを基準として正邪を判定することです。
 宗教によっては、盲目的に信じることを主張し、教義に対する合理的批判を逃(のが)れようとするものがありますが、これでは道理に適った正しい宗教とはいえません。
 『四条金吾殿御返事』に
 「仏法と申すは道理なり。道理と申すは主(しゅ)に勝つ物なり」(同 一一七九頁)
とあるように、正しい宗教とは、普遍(ふへん)妥当性(だとうせい)を有した、道理に適った教えでなくてはならないのです。
 現証とは、現実に顕(あら)われる証拠(しょうこ)をいい、その宗教の教義を信仰することによって顕われる実証を判定することです。
 『観心(かんじんの)本尊抄』に
 「現証を以(もっ)て之(これ)を信ずべきなり」(同 六四八頁)
また『三三蔵(さんさんぞう)祈雨事(きうのこと)』には
 「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(同 八七四頁)
とあるように、三証の中でも特に現証が大切であることが説かれています。
 しかし、一概(いちがい)に現証といっても、低級な邪宗教を信じても一分(いちぶん)の通力(つうりき)が顕われたり、正法を信じる者にも過去の罪業が軽減(けいげん)されて顕われる場合があります。
 大聖人の仰せられる現証とは、文証・理証の判定を前提とした現証のことであり、三証のすべてが整足(せいそく)してはじめて正邪の判定が完結(かんけつ)するのです。
 そして、この三証によって一切の宗教を判定するとき、日蓮大聖人の三大秘法の教えのみが、正しい文証と道理に適(かな)った最高の教義を有し、絶大な功徳を実証する正しい仏法であることが理解できるのです。